昭和五十六年六月十八日 朝の御理解


御理解第六十三節「一粒萬倍と云おうが、一人がおかげを受けたので千人も万人もおかげを受けるようになるから、善い手本になるような信心をせよ。」


 一粒萬倍と仰せられる。その一粒のものが萬倍にもなるという程しの一粒とは、どういうようなもの、どういうような信心を言うのであろうかとね、私は、私自身が助かるという事だと思うです。云うなら、心が助かるという事だと思うですね。どんな場合であっても、まあそれを稽古の過程に於いては、はあ難しい問題が起こった、まあ腹の立つ問題があった、難儀な事であるというような問題の時でも、これをどういうふうに有り難いというふうに答えを出して行こうかという、私は姿勢だと思う。どんな事であっても、どんな場合であっても、これを有り難いという答えを出していく、又有り難いという答えを出してお礼が言えていけれるような信心を一粒萬倍のおかげだとこう思うね。そこに不平を言うたり不足を言うたり、成る程、聞けばもっとも不平も出ろう、不足もあろうごとあるけれども、その不平不足の出るような事柄の中から自分の考え方、思い方心一つではその事にお礼が言えれる。そういう信心を一粒萬倍だと思う。そこには私が助かっておる。そういう心の状態である時、どんな場合であっても自分が助かっておる。そういうおかげを頂きたい。
 先達ても或る教会の奥さんから長々と手紙を頂いた。御主人が御養子さんである。養子に来てもろうて六年間になる。けれどもその丁度結婚記念日に、の日にその手紙を書いておられるようですが、六回目の結婚記念日を迎えまして、今年初めて結婚記念日に教会におります。自分の方に養子に見えて六年間、五年間というものはいつも、その或る病気の為に入院中であるというような、まあいうなら不幸な事は無い。その病気がもう何というかね、どうにも言いようのないような病気なんです。ところが、合楽の信心をだんだん頂くようになり、合楽理念に基づく考え方がだんだん出来てくるようになったら、お教会にも何とはなしに生き生きとしたおかげを頂くようになり、その主人も合楽にお参拝のおかげを頂くようになり、ところが又例の病気が起こったようで、ような感じが最近すると。 ところが、そういう或る日、こういうお夢を頂いたという事が手紙に書いてある。白蛇のお知らせを頂いた。それがだんだん海草に変わっていく。わかめとか、あのところ天草とかいったようなああいう物に変わっていくところを頂いたというのです。まあ問題はね、まあ皆さんお聞きになってすぐ分かられると思うけれども、その主人こそ、その教会に一粒萬倍のおかげの頂ける程しの宝だよと神様が言うておられる訳です。その事をあなたが合楽理念で頂き抜いていったら、もうそれこそ、何十年の教会、けれどもたいした御比礼も立たないで、今日まできておるその教会に、それをこれが教会のめぐりだろうかと言ったような頂き方でなくて、それこそがその教会に云うならば、隆々たる一粒萬倍のおかげの頂けるような御比礼も又頂けれる、云うなら神様が材料を与えておって下さるんだ。
 例えば、阿倍野の先生がどんな時であっても有り難い有り難いで答えを出していかれて、あのまあ大変な兎に角、月に御本部参拝が二千名というのですから、大した教会です。女の先生、だから兎に角有り難い有り難いで受けていけれる。その普通では受けられないようなその事を有り難いで受ければこりゃ教会の宝だよという事。という事をまあ佐田先生に返事を書いてもらって出してもらったんですけれども、兎に角ここにはね、自分自身が助からなきゃ、そういうふうな受け方は出来ない。本当な事が分かるね。まあ合楽風に云うならば、人間は土より出でて土に帰っていくのであるから、だからその道中とても土の心でいくという事なんですよ。もう理路整然とその事を頂き抜いていくという生き方。
 昨日は、合楽会でした。そこの合楽の久保山さんがいつも素晴らしい発表をなさいますが、最近田圃の何ていうでしょうか、境の事でいろんな問題がある。それをひとつひとついつの場合であっても、まあ普通から云うなら、喧嘩にでもなりかねないようなところを、黙って治めるという生き方で、おかげ頂きよりましたら、云うならば、子供達までがそういう流儀をとるようになったという発表でした。ね、お母さんがこの生き方が一番最高ばい、信心させて頂きよる者はここを頂かなんばいというところを、子供達までがそういう頂き方が出来るようにだんだんなってきたという、お話しをしておられましたが、昨日は秋山誠二君が司会を致しました。そしてその事に対して先生が話しておりますのが、私が高校時代にもう兎に角虫の会わん友達が居りましたと、腹に据え兼ねる事ばっかり言うたり、したりする。とうとう或る時に、いわゆる堪忍袋の緒が切れたというのでしょうか、とうとう喧嘩してしまった。ところがその喧嘩以来仲が良くなっておかげを頂いたという例があるけれども、これはね、云うならば、雨降って地固まるとかね、言う事だけは言うてそれから仲が良くなったとかいうのでは、仲が良くなっただけで、徳にも力にもなりませんという事を言ってるんです。例えば子供達が言う事を聞かん、言うて聞かせて分かってくれただけでしょう。けれども、それでは力にはならんというのです。やっぱり久保山さんのような生き方でなければ、力にはなりませんという発表してましたがね。言うて分からせる、分からせたんであっては、ただ分かって呉れたという事であって、それが今日云うならば、一粒萬倍の元になるような助かりにはつながらないという事。
 その事だけが助かった、その事だけが分かった。それ以来彼と仲よ良うなったというだけの事である。ね、これはその、実際の例をもっていうといろいろ面白いお話しが沢山あるんですけれども、今、行橋の方から沢山参って来ます。これは堀内さんという婦人が中心でありますが、今、毎朝そこには朝参りが沢山あるようになった。昨日、一昨日お参りした時に、おかげで十二畳のお広間、お広間というのが二間続きの部屋をお広間にしてその或る御信者がおかげを受けて畳替えがあった。たら或る信者が一間半ばっかりの御神殿があるそうですが、そこに箕をかかげたい、箕を上げさせて頂きたいという申し出があったと、だから受けてもよかろうかとこう言うのである。ほりゃあもう、お参りして来る度に沢山皆がお初穂を包んで来るから、それをまあお供えを合楽教会へお供えをなさいます。昨日も又、横に半間床に大黒様がお祀りしてある。ここにもやっぱり箕をかけたがようはないでしょうか。そんなら今度、合楽にお参りしてお伺いしてからにして下さいと言うて、まあどう致しましょうかといったような事で参って来ておりましたが、この婦人の場合なんかはね、もう本当に普通ではもう掴みかかっていきたいような時に、もうそれこそにこにことして、受け取るです。例えば、御主人の関係であるとか、借金の支払いであるとかという受け方がもう普通ではないのです。云うならば、心を開いた人じゃなからなきゃ出来ないというような受け方で、私共が聞いとっても本当だろうかと思うような受け方。それを実際の事をこういうととても素晴らしいお話しばっかりですけれどもね。まあプライベートにかかわる事ですから。けどもそういう受け方なんです。黙って辛抱するだけではなくて、もうそれをにこにことして受け取るんです。そりがもう見事に手の平を返すように一つ一つがおかげになっていっておるです。
 だから、折角受けるならそういう心を開く。それには、いよいよ御神意が分かり、御神愛が分かり実験実証を重ねて、そういうおかげが頂けると思うんですけれども、結局自分が助かっておらなければ、そこにいわば、にこにこと出来ないて。だから、先ずは自分自身の助かり、だからその助かりを得る為には、どういう問題であっても、この問題を言うて聞かせ、言うたり又はそれを行ったりしてそれを解決しようとするのではなくて、云うなら、黙って治めるのだけれども、黙っておれれる事が有り難い。黙って治める。黙って辛抱しとくじゃなくて、それをにこにこで受けられるという心。その人が助かっとる証拠でしょうが。私はそういう助かりでなからなければね。一粒萬倍といったようなおかげにはつながらないと思うね。
 お互い一粒萬倍のおかげの頂けれるその一粒になりたい。その一粒が生きた働きをなす一粒、一つぶでなからなきゃならない。枯れておっては芽を切る筈はない。なら其の一粒。根を切る一粒というのは、私が生き生きとして心の中に有り難いと感じておれれる、いつもどんな場合であっても有り難いで受けていけれるね。なかなかそれは難しいでしょうけれどもです。
 合楽理念に基づいてそれを一つ一つなら実験して行っておりますと、それが第三者が聞いていたら、嘘のような心でそれを受け止める事が出来る。喜びで受ける事が出来る。そういう喜びをいよいよ大きくしていく。ね、阿倍野の先生をもうそれこそ有り難い、勿体ない、兎に角有り難いの権化のようなお方だといつも申しますがね。どんな場合であっても、有り難いで受けていかれる。そういう心が私は一粒生きた種になるんだと。いわゆる、一粒萬倍のおかげの頂けれる事の為にそれを目指していく。ね、それを例えば合楽では云うならば、成り行きを尊ぶ、大切にするというふうに申します。いよいよ土の心に徹しようというふうに申します。
 なぜ土の心に徹しなければならないか。天地の心とは一体になれれる手立てなんだから、それが信心なんだから、金光教の信心はそれなんだ。天地の心と一体になろうとする精進こそが、云うなら金光教の信心の精進なんだ。だから、そういう心の状態をまあ云うなら、今を喜ぶという事は、自分の心の中を見極めてね。こんな心の状態で喜べというても喜べないという事になるけれども、最近言われる、心行、信行、家業の行とりわけ、信行、信心の行、一日さまざまな事があっとろうけれども、昨日は今の祈念詞がこう、以前は大祓心行というのを、ここで皆さんやってました。五巻でも十巻でも一生懸命こう大祓心行でもさせて頂いとると、もう心が有り難うなってくる。ね、それこそ北野の秋山さんじゃないですけれども、最近御神前で時間を切って御主人と二人で、云うなら信行をなさって居られる。二人でしんからこの信行をしておると、例えば昼、どういう事があってもとけてしもうてただ有り難いものだけで交流するようになる。
 だから、そういう意味でひとつやっぱり信行をやらにゃ出けんが今の祈念詞がこう調子、具合が悪いならばね、御神号だけをお唱えするとか、天地書附だけを繰り返し唱えるといったような事はどうだろうか。生神金光大神、生神金光大神と御信号をお唱えするだけでもいいんじゃないだろうか。又は天地書附を生神金光大神、一心に願えを繰り返し繰り返しこれを唱えるような、いわゆる勤行ですね。などはどうだろうかといったような話も出た事ですけれども、そういう心の状態を作っておらんと、そしてそこに、しんから有り難い信心の喜びに浸っておらんとです、それこそまあ問題が問題であると、にこにこで受けられない。ここは、と言うふうにやっぱり腹が立ったり、悲しかったり致します。腹の立つような悲しい事でもにこにこで受けられる、そういう心こそが一粒だと、萬倍になるところの一粒だと、そういう心、そういう自分の助かりを先ずは頂かなければいけないという事なんです。  どうぞ。